四月から、社内のデータマネジメントのプロジェクトに、自分から手を上げて参画することにしました。
正直に言うと、最初は少し戸惑いもありました。データ品質、メタデータ、データガバナンス——これまでの自分の仕事では、あまり馴染みのなかった言葉たちです。四十九歳で、また新しい領域に飛び込んでいく。でも、もしかしたらこれが新しいきっかけになるんじゃないか。そんな予感もありました。
ところが、本を読み、資料を読み、社内の有識者と話していくうちに、だんだん妙な感覚になってきたのです。
これ、自分が二十年やってきたことと、地続きじゃないか——と。
目次
書き出した言葉の正体
僕は、朝三時半に起きる習慣を二十年以上続けてきました。読書は累計で三千冊を超えました。日記も書いてきました。ブログも五年以上続けています。
でも、正直に書くと、これまでは「経験を溜めている」くらいの感覚でした。あとから振り返るための記録。そんなイメージです。
ところがデータマネジメントを学ぶ中で、ある瞬間に気づいたのです。
僕がやってきたのは、「経験の保存」ではなかったのかもしれない、と。
本を読んでいて、ある一行にハッとして付箋を貼る。あの瞬間、何が起こっているのか。
ずっと「その言葉が大事だと思ったから付箋を貼る」のだと思っていました。でも最近、少し違う見え方をするようになりました。
あれは、未来の自分が「それ、大事だよ」と、今の自分に付箋を貼りに来ているのではないか。
まだ中身は伴っていない。今の自分には実感もない。でも、なぜかその言葉に惹かれる。その「惹かれる」という反応そのものが、未来のなりたい自分からのサインだったんじゃないか。そう思うようになりました。
二十七歳のとき、妻と交わしていた交換日記の余白に、未来のことを書き出したことがあります。これといった根拠はありませんでした。ただ、書き出してみたかった。するとその三ヶ月後から、書いた言葉が少しずつ現実になり始めたのです。
あの経験も、同じだったのかもしれません。未来の自分が、二十七歳の自分に付箋を貼りに来ていた。その付箋を丁寧に書き留めるうちに、行きたい方向が立ち上がり、そこから必要な情報が向こうから目に入るようになり、それに応えて行動が動き出した。
書き出すことは、過去の保存じゃなかった。未来の自分を、今の自分の頭の片隅に置いておく作業だったのです。
データマネジメントが教えてくれた、個人の整え方
ここからが、今回いちばん書きたかったことです。
データマネジメントという領域では、こんなことを扱います。
- データの品質をどう保つか
- どんなデータがあるかを示すメタデータ(データについてのデータ)をどう設計するか
- 誰が責任を持って管理するかというガバナンスをどう決めるか
- 使う目的から逆算して、どう溜めるかを設計する
これ、企業の話だとずっと思っていました。大量のデータを扱う組織だからこそ必要な概念だ、と。
でも、学びながら気づいてしまったのです。個人も、自分自身のデータに対して、同じことをやったほうがいいんじゃないかと。
こんなふうに考えました。
個人だから、ルールがなくてもなんとなく成り立っているように見える。けれど、よく考えると自分の中には複数の「自分」がいます。二十九歳で読書ログを書き始めた自分。三十五歳で日記を書いていた自分。四十二歳でブログを始めた自分。そして今、四十九歳の自分。
それぞれ、書き方のルールがバラバラでした。フォーマットも、残し方も、振り返るタイミングも違う。結果として、せっかく溜めたものの質が揃わず、あとから使おうとしても使いにくい。
つまり——自分自身が、ルールのないチームだったのです。
これは、ちょっと衝撃でした。
でも同時に、気づいてしまった以上、やれることがある、とも思いました。利用する目的から逆算して、これからは意識的に設計していけばいい。データマネジメントの言葉で言うと、「利用シーンから逆算した設計」ということになります。
付箋の下に、アンカーを打ち込む
ここで、もう一つ気づいたことがあります。
本に貼る付箋、日記の一行、ブログの一記事。これらは、日々の小さな磁化だと書きました。でもよく振り返ると、それらとは別に、人生にもっと深く打ち込まれているものがあります。
二十七歳で交換日記に書いた言葉。ナポレオン・ヒルと出会って刻まれた思想。子どもたちに残したいと決めたメッセージ。これらは付箋よりもっと重く、簡単にははがれない。
僕の中では、これを「未来からのアンカー」と呼ぶことにしました。錨(いかり)のように、人生の深いところに打ち込まれているもの。
構造にすると、こういうイメージです。
- 日々の付箋——読書メモ、日記、ブログの一行。毎日増えていく小さな磁化
- 人生のアンカー——その中でも特に深く刺さって、ブレない軸になったもの
これも、実はデータマネジメントの世界にある概念と重なります。日々流れていく取引データと、めったに変わらないマスターデータ。この二層構造が、組織のデータを整える基本なのだそうです。
個人のデータでも、似た構造があります。ただ、企業との大きな違いが一つあります。企業のマスターデータは、最初から確定しています。けれど個人のアンカーは、付箋を貼り続けて解像度が上がった先で、いつの間にか立ち上がっているものです。
しかも、付箋からアンカーに切り替わる瞬間は、はっきりとは分かりません。「ここからアンカーになりました」という明確な節目は、たぶん来ないのです。
ではどう気づくのか。目的に近づくための小さな情報が、自然と目に入り始めたら、それがアンカーができ始めた証拠です。
立ち上がったアンカーは、目的地として磁力を発します。磁力が生まれると、目的に必要な情報が、向こうから集まってくる。集まった情報に対して行動を積み上げると、見える景色が少しずつ変わっていく。そして気づくと、いつの間にかアンカーの場所に近づいている。
二十七歳の交換日記で起きたのも、たぶんこの順番でした。書き出すことで何かが立ち上がり、必要な情報が向こうから目に入るようになり、それに応えて行動が積み上がり、三ヶ月後に景色が変わっていた。
この順番は、僕自身、二十二年間実践してきて確信しています。本当に、これしかありません。意識的にこの仕組みに乗れるかどうかで、人生の回り方が変わってくる——そう言い切れるところまで来ました。
肩書きの先に残るもの
同世代の、四十代・五十代の男性に、少しだけ書かせてください。
僕自身そうなのですが、この年齢になると、ふと不安になる瞬間があります。経験は溜まっているはずなのに、言葉にならない。自己紹介をしようとすると、結局は会社名と役職しか出てこない。肩書きを外したら、自分は何を持っているんだろう——そんな感覚です。
でも、今回の気づきの中で、少し見え方が変わりました。
今まであなたが気になってメモした言葉、付箋を貼った本の一行、何気なく書き留めた日記の断片。それは全部、あなたの未来のなりたい姿から届いた付箋だったのかもしれないのです。
肩書きは、会社を離れたら消えてしまうものです。でも、二十年、三十年かけて自分の中に貼ってきた付箋は、消えません。ただ、使い方を知らなかっただけで、そこにちゃんと在ります。
溜めてきたものを「使えていない」と嘆くのではなく、これからどう設計し直すか。まだ間に合います。四十九歳の僕が今そう思えているのだから、同じ世代のあなたも、きっと同じように思えるはずです。
では、何を溜めるといいのか
ここから先は、正直まだ僕も実験中です。でも、現時点で思っていることを書き残しておきます。
今すでにやっていることは、読書ログ、日記、そして最近始めたAIとの思考の壁打ちです。加えて、年に一度の個人の貸借対照表。これだけでも、同世代の中ではそれなりに溜めているほうだと思います。
でも、データマネジメントの視点で見ると、抜けているものがあると気づきました。
たとえば、日々の記録と、年に一度の振り返りの間——つまり週次の振り返り。ここがずっと空白だった気がします。日々の付箋は貼っているのに、週単位で眺め直す習慣がなかった。だから、溜めたものが使える形で残らなかった。
それから、身体の学びの記録。
僕は週末に、時間があればハーフマラソン、時間がない日は十キロ前後を走っています。長距離を走ると、体の使い方を学ばないと、すぐに膝や足首が痛くなって走れなくなります。だから、走りながら少しずつ体の使い方を覚えていく。
これ、読書ログと構造が同じなんです。本を読む→付箋を貼る→ログに書き起こす。体を動かす→痛みや違和感→体の使い方を学ぶ。身体から届く付箋も、ちゃんと記録しておきたい。
もう一つ、気になっているのが、月に一度、会った人を棚卸しすること。
正直、これが何に使えるかはまだ分かりません。でも「気になる」ということ自体が、未来からの付箋だと思うようになりました。使い道は、未来の自分が見つけてくれるはず。普段は何気なく流れていく人たちを、月に一度だけ、客観的に捕まえてみる。そういう実験をしてみたいのです。
読書ログ、日記、AIとの壁打ち、貸借対照表、週次レビュー、身体の学び、会った人の棚卸し——こうして並べてみると、自分という「チーム」に渡せる引き継ぎ書類が、少しずつ形になってきそうです。
溜めるから、設計するへ
書きながら、自分の中で整理されてきました。
これまでの二十年は、無自覚に付箋を貼ってきた時期でした。でもその無自覚な行為そのものが、未来の自分からの信号を受け取っていた。それだけでも十分に意味がありました。
これからの二十年は、少し違うやり方ができそうです。データマネジメントの視点を借りて、どう使うかから逆算して、溜め方そのものを設計し直す。付箋にも、アンカーにも、もう少し意識的になる。
何を記録するか。どんな形で残すか。いつ振り返るか。誰のために残すか。こうした問いを、自分という「チーム」に対して投げかけていく。
一年後、二年後、これがどう育っていくのか、正直まだ分かりません。ただ、ワクワクしています。四十九歳で、まだ自分が伸びる余地があると気づけた。これが今回いちばん嬉しかったことです。
完成された答えではありません。今日から始める、小さな設計の話です。
このあたりの実験は、「個人データ設計ノート」として、これからのブログで少しずつ書いていこうと思います。週次レビュー、身体の学び、会った人の棚卸し——ひとつずつ、やってみて、気づいたことを残していきます。
娘へ、一言だけ
パパも、まだ付箋を貼り続けているよ。
君の本棚にもきっと、未来の君からの付箋が貼られている。あの瞬間に惹かれた言葉を、大事にしてね。


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