正直に書きます。
49歳になって、自分の中にひとつ、はっきり見えてきた癖があります。
生の感情を、すぐ合理化で逃がしてしまう。
たとえば、何かにムッとしたとする。悔しい、怖い、ザワつく。そういう生々しい感情が起きた瞬間、私の頭はほぼ自動で「まあ、そういうこともあるよね」「相手にも事情があるし」「落ち着いて考えれば当然だよな」と、きれいな言葉で包み始める。
包むのがうまい。これまで49年、たぶん何千回もやってきたから、手つきが慣れている。
でもある朝、ふと気づいたんです。
この「包むのが速すぎる」が、自分の提案できなさと、どこかで繋がっているんじゃないか、と。
目次
ある場面で、止まった自分
ある場面で、顧客にサービスを提案しようとして、止まりました。
言葉が出ない、というのとは少し違います。言葉は用意してある。資料もある。価格も決めてある。
それなのに、最後の一押しのところで、自分の中から「本当にこれでいいの?」という声が湧いてきて、そのまま次の打ち合わせが来て、流れてしまった。
ぶっちゃけ、こういうことが続いています。
顧客の悩み、モヤモヤに対する適切なサービスが分からずに止まる。チームの方針決定でも「これでよいのか?!」で止まる。
なんでだろう、と長いこと考えていました。
スキルが足りないのか。実績が足りないのか。覚悟が足りないのか。
どれも当てはまる気はするけど、どれもしっくりこない。
たどり着いた仮説
朝の時間に、自分を観察し続けて、ひとつの仮説にたどり着きました。
私は、提案しようとする瞬間に湧く「怖さ」とか「ザワつき」を、合理化で瞬時に消してしまっている。
「今は時期じゃない」
「相手も忙しそうだし」
「もう少し準備してからの方が失礼にならない」
「今日はタイミングが悪い」
ぜんぶ、もっともらしい。ぜんぶ、反論しにくい。ぜんぶ、きれいな日本語で自分を納得させてくれる。
でも、よく見るとこれ、全部「怖い」を別の言葉に翻訳しているだけなんですよね。
生の感情は「怖い」「断られたくない」「値段を言うのがしんどい」です。
それを、そのまま見ていられない。だから、頭のいい言葉にすり替えて、見なかったことにする。
合理化は、優秀な逃げ道なんです。
しかも、自分でも逃げていると気づきにくい。
若い頃の私も、同じことをしていた
思い返すと、これ、若い頃からの癖でした。
20代の私は、何かにぶつかると「分からない」「難しい」で思考停止していました。今にして思えば、あの「分からない」も、生の感情から逃げるための便利な言葉だったと思います。
本当は「怖い」だった。
本当は「やってみて失敗したくない」だった。
本当は「自分にできるのかが不安」だった。
それを全部「分からない」という一語で片付けて、行動しないことを自分に許していた。
27歳のある日、本屋でナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』と出会いました。中身の話はまた別の記事に書きますが、あのとき一番衝撃だったのは、内容そのものよりも、自分の反応でした。
「思考が現実になるなんて、そんな都合のいい話があるか」と思いながら、
同時に「もし本当だったら、こんなに楽しいことはないよな」とも思った。
この二つ目の声が、私の人生を動かしました。
もし本当だったら、儲けもの。
やってみればいい。違ったら、それも分かる。
この出発点に立てたから、妻と交換日記の余白に未来を書き出すという、傍から見たらちょっと怪しい実験に踏み込めた。そしてそれが3ヶ月で現実になり始めて、今の私の根っこになっている。
出発点に立てるかどうか
49歳になって分かってきたのは、人生の分かれ目は「正解を知っているか」じゃないということです。
分かれ目は、出発点に立てるかどうか。
「過去の延長線上で、何も変わらない」と言ってしまえば、行動は生まれません。
「もし本当だったら、儲けもの」と言えれば、小さな一歩が踏み出せる。
この違いは、頭の良さでもセンスでもなくて、生の感情を一度そのまま置いておけるかどうか、なんじゃないか、と最近思っています。
怖いを、怖いまま置いておく。
ザワつきを、ザワつきのまま置いておく。
すぐに合理化で包まない。
そうすると、その感情の下に「本当はこれをやりたい」という声が、わりとはっきり聞こえてきます。
私の場合、顧客への提案で止まる瞬間の下にあった声は、こうでした。
「自分の話で、誰かの何かが動いたらうれしい」
これ、ずっとあった声なんです。ただ、「怖い」という蓋と、「合理化」というもう一枚の蓋で、二重にふさいでいたから聞こえなかっただけで。
子どもたちへ、そして同世代へ
娘と息子に、いつか読んでもらえたら嬉しいなと思って書いています。
二人とも、これから先、いろんな場面で「怖い」「分からない」「自信がない」に出会うと思う。その時、頭のいい言葉で自分を納得させることは、きっといくらでもできるようになる。学校でも、社会でも、それができる人が評価される場面は多い。
でも、パパからひとつだけお願いしたいのは、
その前に、生の感情を一瞬だけ、そのまま見てみてほしいということです。
怖いなら、怖い。
分からないなら、本当に分からないのか、本当は怖いのか。
そこを見てから、選んでほしい。選んだ先が「やらない」でもいい。ただ、合理化で自動的に「やらない」を選ばされるのは、もったいないと思うから。
そして、同じようにどこかで止まっている40代・50代の人にも、同じことを書いておきます。
私たちは頭がいい。合理化がうまい。だからこそ、生の感情を見る練習が要るんだと思う。
私はまだ、提案できない自分と戦っている途中です。今日もたぶん、どこかで合理化で逃げる。でも、逃げた瞬間に「あ、今逃げたな」と気づけるようにはなってきた。気づくだけで、次の一回は少し違う選択ができる。
完成してから書こうとは思っていません。
もがいている途中のまま、書きます。
それが、一番正直だから。
※ナポレオン・ヒル『思考は現実化する』との出会いと、そこから始まった「書き出す」実践については、別の記事で詳しく書く予定です。


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